先日観た、映画「繕い裁つ人」が素敵だったので、原作が気になって読んでみました!
祖母が始めたまちの洋裁店「南洋裁店」の二代目店主、市江。
その人の人生に寄り添う、オーダーメイドの服を、職人気質に作り続ける。
太ったり、痩せたり、人生の形や、体型の変化と共にお直しを引き受け、
要らなくなった服は、その思い出とともに引き取ることもする。
洋服と、着る服の限りなくすべての責任をおう、南洋裁店。
そんな市江の作る服に惚れ込む、百貨店の企画部の藤井。
これまた、洋服と、その背景に至るまでを理解し、愛する男。
次第にふたりは惹かれあっていくものの、
不器用なふたりゆえ、分かりやすい言葉もないし、約束もない。
それでも、いつでもお互いの心の中には、お互いがいて、
時間を重ねていく。
ある時、大きな変化が起こります。
藤井は、パリ支店へ移動を希望して、旅立つことになったのです。
市江に「一緒にパリへ行こう」と伝えることができずに、
市江自身も、南洋裁店を離れようとはせずに、
別の道を歩みだす。
だけど、お互いが、お互いの心の拠り所であることには変わりなく、
遠くに居ながらも、
ふたりは新しい挑戦を続けるし、お互いを気にかけているのです。
そこで、物語は終わり。
分かりやすい愛の言葉も、将来の約束もなく、
分かりやすいハッピーエンドではなく、物語はそこで終わり!
最初、
「えーーー!?」とね、
やっぱり、悲しくて、寂しい気持ちになったんです。
そして、「えーーーー!」という気持ちのまま、読み返したときに、たとえ分かりやすい言葉がなくても、将来の約束がなくてもふたりがお互いを、これ以上ないくらい愛し合っていて、愛は続いていくってことに気づいて、そのときに、どうしようもないくらい、泣いてしまいました。
藤井は、
物心つく頃から祖母のそばで、街の人の中で、「南洋裁店の2代目」として育ってきた市江が、店を離れると、市江は市江でいられなくなることを理解した。
だから、「ついてきてほしい」と言えなかったのではなくて、あえて言わなかった。
市江は、
寂しい気持ちを飲み込んで、旅立つ藤井がうんと幸せであるように願いながら、餞(はなむけ)のコートを仕立てた。
自分が毎日向き合う仕事の中に、
ふと見つける風景に、
誰かの言葉の中に、
お互いの存在を見つけて、
手紙を書き、
前を向いて、人生をすすめていくのですよ。
そうだよね〜。「愛」って、そういうことだよね。
お互いのあり方を、そのまま理解すること。
相手のために、自分の人生を犠牲にしないこと。
いつでも大切に想っていること。
そして、それを相手の負担にならないように表現すること。
「愛しているよ」
「付き合おう」
「結婚しよう」
こういう言葉や約束は、この物語の中には出てこない。でも、これが愛でなくて、なんていうんだ!!!
という具合に、おとぎ話ではなくて、とっても現実的な、大人の漫画でした◎
また少し話題が変わるのですが、
アドラー心理学の野田俊作先生の講演会
2013年11月佐賀の講演「美しく老いる」が、こちらのURLより聞けるのです。
こちら、とっても素晴らしい内容で。ぜーんぶ聞いて、本当にオススメなんですが、
でもって衝撃的なのが、冒頭の部分なんです。
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この世の中で、一番嫌な人。
「付き合いたくなくて、早く死ねばいいのに、お前」と思ってしまう人は、
「私は幸せになりたい」と思っている老人です。
老人は、存在するだけだと、周りを不幸にします。
赤ちゃんは、存在するだけで、周りを幸せにします。
「老人は存在するだけで他人を不幸にする、嫌な存在だ。」
このことを老人自身がわかっていないと、美しくなんて老いられません。
「私が幸せになりたい」と思うことを、能動的に捨てることです。
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「私は幸せになりたい!」って思ってる老人は、幸せから遠ざかっていくのかー!ひゃーーーっ!!と、ある意味ショッキングだったのです。
赤ちゃんは、「自分のためだけ」に、生きています。
いつしか人間は「誰かのために」生きるようになり、
「誰かのために生きることこそが、当人の幸せ」となる。
そして、また話が変わるのですが。
ふと、よもやま話で「最後の晩餐、何が食べたい?」と聞かれて「そうだな〜。何がいいかなぁ。お寿司かな?あれも、これも好きだけど、最後って感じじゃないし・・・」などと考えていたのですが、どれもこれも、
「自分でつくる」というイメージが持てなかったんですね。
この感覚が「私のわがまま」なのか、それとも一般的なものなのかが知りたくて、Facebookに書き込んでみたところ、
「そら、自分では作らんでしょう」といった回答をいただいたのです!(みなさんどうでしょう)
最後の晩餐は、誰かに作ってもらって、食べる。
それが、最後の晩餐のあり方なのか、と思ったら、
自分のために生きる(赤ちゃん)
誰かのために生きることで、幸せになる(大人)
自分が幸せになることをやめて、さらに積極的に、誰かのために生きる(老人)
誰かが、ねぎらってくれる(最期)
こういう風にして、人生が進んでいくのか〜。ははーん、なるほど〜。と思った次第です。
そして、さらに。
先日、娘さんの成人式の写真の相談にいらっしゃったお母さんが、
「もうすぐ、娘の就職活動。今と昔では時代も違うし、なんと助言したらいいものやら」的な悩みを抱えていらっしゃったのですが、
もう、なんていうか、言葉を選ばずにいうと「助言できることは、ない」ということを、助言させてもらったんです。
だって、分かるはずがないですもの、今の時代のことを。
それは「良い」とか「悪い」という範疇のものではなくて、時代が違って、時代が変わってるから、ただ、そういうものなんだと思います。
もう少し優しい言葉で言うと「一番、やりたいことを、やりたいようにやりなさい。あなたなら、できる。」と信じていること、ですよね。
やっぱり、「子供が、社会へ自分の力で出ていく」ところで、一旦親の役目は終わるのでしょうね。
それは、愛がなくなるのとは違うことです。
そのうち子供は、自分の生き方、仕事、あり方を、親以上に理解してくれる相手に出会えるのだし(市江と藤井のように)、その相手を親が探してくることはできませんから、子供を100%信じて、大丈夫だよ、と、子供に伝えてあげられたら、それ以上の励ましはないのではないかと思います。
役割や、社会との関わり、人間関係は、変化していくもので。
なんか、愛って。
移ろいでいく人生と共に、手間暇をかけて、日々大切に育て、相手が(お互いが)持っていやすい形に整えておくことなんだなぁと、
もろもろのことを繋ぎ合わせながら、感じていたりしました。
愛って、とっても、繊細ですね。