「大きいものに拠る」という生き方で、弱まった力

Posted on Posted in アイのポスト, ナム哲学

「アイのポスト」という企画をぼちぼちとスタートし、

進めながら、参加者の方にフィードバックをいただき、さらに改良する…

ということを進めています。

 

20180710_numsky

0期、1期、2期・・・とやってきて、

(ちなみに、3期は5名のご参加が決まっています)

 

改めて「サラリーマンは、自分の言葉で、自分の想いを語る・意志表示する力が弱いなぁ」と感じています。

「多数決」や「数字が大きいのが良い(売り上げ、賛同者など)」とされるセカイの中で

自分の居場所をつくってきた人にとって、

「(自分の意志はさておき)大きいものに拠る」という癖が染み込んでて、

「自分の意志が果たしてどこにあるのか?」ということが、パッと取り出せない。

 

言葉にすること、意志表示することには、責任が宿ります。

この責任を受け取る経験が少な過ぎるがゆえ、

「こわさ」を感じてしまうのかな?…と。

 

責任を引き受けることは、「こわさ」もありますが、

自由で、生きる喜びであり、素晴らしいことで、決して命がとられるようなことではないのだけどな。

むしろ、大きいものに拠って、本来の自分の気持ちや考えを押し殺していることの方が、

命が働いていない状態なんだけどな…。

 

今、働き方改革やら、イノベーションやら、なにやらが盛んに言われて、いろいろな取り組みが行われています。

「自社の中にリソースがないから、社外に取りにいく」ということは、常識になりつつありますが、

いくら社外へ「他のもの」を取りに行ったところで、

ほとんどは何も変わらないだろうなぁと思います。

 

「大きいものに拠って、自分を助ける」という方法に対する、本質的な変容がないのであれば。

同時に、「どれくらい大きいものに恩恵を受けているか」という感謝がないのであれば。

 

大量生産、大量消費の時代は、10年以上前に終わってて、

「大きいものの正義」が崩れ去る前に、どうか素晴らしいもの(自分のいちばん近くにある)を手に入れられますように。

 

 

 

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