純粋・最強説

Posted on Posted in ナム哲学

大人になっても、忘れたくないもの。
もしくは、大人になる過程で、忘れてきたもの。

「純粋さ」というもの。

 

「中途半端な純粋さは、外野からの声に傷つくこともあるけど、本当に純粋な存在(例えば天使ちゃんがいるとしたら、、)”バカ”って言われたとしても、傷つくことはない。」

なんか、そんな話を聞いたときに、とても納得したことがあります。

 

絵の具に、もし「無色透明」という色があるとしたら。

上に、赤や、青や、黄色や、どんな色を乗せられようと、「無色透明」という色のまま存在できる。

 

そういうイメージです。

どこまで純度高く、透明に近づけるか。

本当の思いや願いとやらへ、研ぎ澄ませることができるのか。

その思いや願いが、

「私」ひとりじゃなくて、社会へ還元できるものだったら。
その「社会」とは、大阪とか、日本とか、全人類とか、宇宙のはてとか? 大きければ大きいほど、

「純粋」という言葉からイメージされるか弱さは消え、

「純粋さ」こそが最強であれるのではないかと、そんなことを思いました。

 

 

*以下、しょうもない話  ↓

 

・・・今日、洗いたての、真っ白の春物ブルゾンを着て、
テイクアウトのコーヒー持って階段を歩いてて、
よせばいいのに、よそ見をしていたもので、
段差でけつまずいて、コーヒーが、真っ白のブルゾンの袖口に、パシャッッ!!!

 

「あ!!!」

 

と思ったけど、傷つきません、そんなことでは。。

けつまずいたのに、体制を立て直した、私の反射神経との良さを褒め称え 笑、
今日は、スニーカーをはいていたから、これまたラッキーで、
(ヒールだったら、もうちょっと大変だったと思う)

コーヒーカップを落とすこともなく、たっぷり飲むことができました!

よしよし、順調。

 

ブルゾンは、染み付きだけど。

さ、明日もほわん♡と、がんばりましょう!

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