分かりやすい言葉がなくても、やっぱり、それが「愛」だった。

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先日観た、映画「繕い裁つ人」が素敵だったので、原作が気になって読んでみました!

 

「繕い裁つ人」池辺 葵著 全6巻

 

祖母が始めたまちの洋裁店「南洋裁店」の二代目店主、市江。

その人の人生に寄り添う、オーダーメイドの服を、職人気質に作り続ける。

 

太ったり、痩せたり、人生の形や、体型の変化と共にお直しを引き受け、

要らなくなった服は、その思い出とともに引き取ることもする。

 

洋服と、着る服の限りなくすべての責任をおう、南洋裁店。

 

そんな市江の作る服に惚れ込む、百貨店の企画部の藤井。

これまた、洋服と、その背景に至るまでを理解し、愛する男。

 

次第にふたりは惹かれあっていくものの、

不器用なふたりゆえ、分かりやすい言葉もないし、約束もない。

 

それでも、いつでもお互いの心の中には、お互いがいて、

時間を重ねていく。

 

ある時、大きな変化が起こります。

藤井は、パリ支店へ移動を希望して、旅立つことになったのです。

市江に「一緒にパリへ行こう」と伝えることができずに、

市江自身も、南洋裁店を離れようとはせずに、

別の道を歩みだす。

 

だけど、お互いが、お互いの心の拠り所であることには変わりなく、

遠くに居ながらも、

ふたりは新しい挑戦を続けるし、お互いを気にかけているのです。

そこで、物語は終わり。

 

 

分かりやすい愛の言葉も、将来の約束もなく、

分かりやすいハッピーエンドではなく、物語はそこで終わり!

 

 

最初、

「えーーー!?」とね、

やっぱり、悲しくて、寂しい気持ちになったんです。

 

そして、「えーーーー!」という気持ちのまま、読み返したときに、たとえ分かりやすい言葉がなくても、将来の約束がなくてもふたりがお互いを、これ以上ないくらい愛し合っていて、愛は続いていくってことに気づいて、そのときに、どうしようもないくらい、泣いてしまいました。

 

 

藤井は、

物心つく頃から祖母のそばで、街の人の中で、「南洋裁店の2代目」として育ってきた市江が、店を離れると、市江は市江でいられなくなることを理解した。

だから、「ついてきてほしい」と言えなかったのではなくて、あえて言わなかった。

 

市江は、

寂しい気持ちを飲み込んで、旅立つ藤井がうんと幸せであるように願いながら、餞(はなむけ)のコートを仕立てた。

 

 

自分が毎日向き合う仕事の中に、

ふと見つける風景に、

誰かの言葉の中に、

お互いの存在を見つけて、

手紙を書き、

前を向いて、人生をすすめていくのですよ。

 

そうだよね〜。「愛」って、そういうことだよね。

お互いのあり方を、そのまま理解すること。

相手のために、自分の人生を犠牲にしないこと。

いつでも大切に想っていること。

そして、それを相手の負担にならないように表現すること。

 

「愛しているよ」

「付き合おう」

「結婚しよう」

 

こういう言葉や約束は、この物語の中には出てこない。でも、これが愛でなくて、なんていうんだ!!!

という具合に、おとぎ話ではなくて、とっても現実的な、大人の漫画でした◎

 

 

また少し話題が変わるのですが、

 

アドラー心理学の野田俊作先生の講演会

2013年11月佐賀の講演「美しく老いる」が、こちらのURLより聞けるのです。

 

こちら、とっても素晴らしい内容で。ぜーんぶ聞いて、本当にオススメなんですが、

でもって衝撃的なのが、冒頭の部分なんです。

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この世の中で、一番嫌な人。

「付き合いたくなくて、早く死ねばいいのに、お前」と思ってしまう人は、

「私は幸せになりたい」と思っている老人です。

 

老人は、存在するだけだと、周りを不幸にします。

赤ちゃんは、存在するだけで、周りを幸せにします。

「老人は存在するだけで他人を不幸にする、嫌な存在だ。」

このことを老人自身がわかっていないと、美しくなんて老いられません。

 

「私が幸せになりたい」と思うことを、能動的に捨てることです。

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「私は幸せになりたい!」って思ってる老人は、幸せから遠ざかっていくのかー!ひゃーーーっ!!と、ある意味ショッキングだったのです。

 

 

赤ちゃんは、「自分のためだけ」に、生きています。

いつしか人間は「誰かのために」生きるようになり、

「誰かのために生きることこそが、当人の幸せ」となる。

 

そして、また話が変わるのですが。

ふと、よもやま話で「最後の晩餐、何が食べたい?」と聞かれて「そうだな〜。何がいいかなぁ。お寿司かな?あれも、これも好きだけど、最後って感じじゃないし・・・」などと考えていたのですが、どれもこれも、

「自分でつくる」というイメージが持てなかったんですね。

この感覚が「私のわがまま」なのか、それとも一般的なものなのかが知りたくて、Facebookに書き込んでみたところ、

「そら、自分では作らんでしょう」といった回答をいただいたのです!(みなさんどうでしょう)

 

最後の晩餐は、誰かに作ってもらって、食べる。

 

それが、最後の晩餐のあり方なのか、と思ったら、

 

 

自分のために生きる(赤ちゃん)

誰かのために生きることで、幸せになる(大人)

自分が幸せになることをやめて、さらに積極的に、誰かのために生きる(老人)

誰かが、ねぎらってくれる(最期)

 

こういう風にして、人生が進んでいくのか〜。ははーん、なるほど〜。と思った次第です。

 

 

そして、さらに。

 

先日、娘さんの成人式の写真の相談にいらっしゃったお母さんが、

「もうすぐ、娘の就職活動。今と昔では時代も違うし、なんと助言したらいいものやら」的な悩みを抱えていらっしゃったのですが、

もう、なんていうか、言葉を選ばずにいうと「助言できることは、ない」ということを、助言させてもらったんです。

 

だって、分かるはずがないですもの、今の時代のことを。

それは「良い」とか「悪い」という範疇のものではなくて、時代が違って、時代が変わってるから、ただ、そういうものなんだと思います。

 

もう少し優しい言葉で言うと「一番、やりたいことを、やりたいようにやりなさい。あなたなら、できる。」と信じていること、ですよね。

 

やっぱり、「子供が、社会へ自分の力で出ていく」ところで、一旦親の役目は終わるのでしょうね。

 

それは、愛がなくなるのとは違うことです。

 

そのうち子供は、自分の生き方、仕事、あり方を、親以上に理解してくれる相手に出会えるのだし(市江と藤井のように)、その相手を親が探してくることはできませんから、子供を100%信じて、大丈夫だよ、と、子供に伝えてあげられたら、それ以上の励ましはないのではないかと思います。

 

 

役割や、社会との関わり、人間関係は、変化していくもので。

 

 

なんか、愛って。

 

 

移ろいでいく人生と共に、手間暇をかけて、日々大切に育て、相手が(お互いが)持っていやすい形に整えておくことなんだなぁと、

もろもろのことを繋ぎ合わせながら、感じていたりしました。

 

愛って、とっても、繊細ですね。

 

 

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